今回は秦をを滅ぼしたきっかけになる陳勝・呉広の乱から「項羽と劉邦」の争い、漢の成立までです。
秦の始皇帝の死後、宦官(後宮に仕える役人たち)の政治の専横が激しさを増し、その中で匈奴討伐で活躍したキングダムでもお馴染み蒙恬などの優れた人材はどんどん処刑されていってしまうことになります。
そういった中、始皇帝の頃から続く厳しい法律や過酷な労働に人々の不満は高まっていきました。
そうして立ち上がったのが、陳勝・呉広という農民です。彼らのもと多くの民衆が立ち上がりました。
陳勝・呉広の乱
秦の命令を受けて、万里の長城の修復作業に人夫を連れていた陳勝・呉広は悪天候もあって時間通りに作業場に到着することができなくなってしまいました。
そのまま作業場にいっても秦の法律によって裁かれ処刑を待つだけ...。陳勝・呉広は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と人夫に呼びかけ秦に対して反旗を翻します。
これはまさに戦国時代以来の実力主義の風潮をよく示していると言えます。
こうしてはじまった陳勝・呉広の乱は結果的には秦の軍によって鎮圧されてしまいますが、これを機に各国で亡命していた戦国時代の生き残りの将達も一斉に反旗を翻しました。
「項羽と劉邦」
その立ち上がった人々の中にいたのがその名門出身の項羽と農民出身の劉邦です。
彼らは秦の都咸陽をどちらが先に陥すかという競争をします。
武力を持って敵を殺すまで攻めた項羽に対し、劉邦はその際に秦軍に降伏を促すなどの作戦を用いて無血で咸陽を開城させることに成功します。
これによって名声をえた劉邦は項羽と対立を深めていきます。
劉邦のもとには「背水の陣」で有名な軍師韓信などの優れた人材を用いて、項羽を前202年に垓下の戦いで倒し皇帝の位につきました。
のちに劉邦は高祖と呼ばれ理想的な君主として崇められていきました。
こうして劉邦は長安を都として漢(前漢)を建てました。
チェックリスト
- 秦の滅亡から漢建国までの流れを説明できる