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中国史③ 殷と周


殷王朝について

今回は中国最古の王朝と言われている王朝についてです。
殷は家族のような血縁的な繋がり(氏族)で組織されたいくつもの邑を束ねる盟主として黄河流域で勢力を築きました。
殷は殷墟の発掘、甲骨文字の発見により現在確認できる最古の王朝とされています。
甲骨文字はなんと薬屋でたまたま発見されたというエピソードがあります。前回話した夏王朝も文字の資料が見つかれば、最古の王朝として認定されるようになるかもしれません。

殷王朝の政治について

当時の殷王朝は神権政治に基づいて様々な決め事を行っていたそうです。
また、多くの戦争奴隷を従えていたそうで、このような政治に人々の不満は高まっていきました。
殷は周との牧野の戦いで周の武王によって滅ぼされてしまいました。
その時の兵力は殷70万vs周40万とも言われています(ほんとかいな)。しかし、戦いの最中にも神への占いに戦術を委ねたり、戦争奴隷が今までの不満から裏切ったりと圧倒的な人数差にもかかわらず、周が勝利をおさめました。

周王朝について

こうして誕生したのが、周王朝になります。周は鎬京(現在の西安)を都とし殷よりも遥かに広い領土を統治しました。

中国王朝の移り変わりについて

今回の殷→周のような中国王朝の移り変わりは「天子」という中国の政治思想に基づいて行われます。
中国の王朝では「天子」が「天」から支配を委ねられていると考えられています。
王朝の交代は天子が入れ替わることから易姓革命と呼ばれます。これは革命(Revolution)の期限とされており、のちの孟子と呼ばれる思想家によって提唱されました。
「天子」は天から天下を治めることを委ねられているわけですから、王朝を「武力」を持ってして滅ぼすことは許されていません。この殷→周のように武力で王朝が交代することを放伐と言い、これをした王朝は世間から強い反発を受けることになります。
一方、正式な手続きを持って「天子」の座を譲り渡す方法は禅譲と呼びます(実際にはほぼ武力を背景に強制的に禅譲「させられてしまう」のですが)。

封建制

周王朝は広大な領土を支配するために、都である鎬京付近は周王自身で支配するとともに、各邑の支配を一族や諸侯に任せました。
ここでいう一族や諸侯は血縁的な関係を持った氏族的な集団を指します。彼らに支配を委ねる代わりに、貢納や軍役を課しました。このような封土(あげた土地)によって結ばれた主従関係のことを封建制と呼びます。
周王や諸侯らは卿・大夫・士と呼ばれる家臣にさらに領地を与えて民を支配しました。

中世ヨーロッパにも封建という概念が登場しますが、それと大きく異なるのは周の封建制は氏族制に基づくという点です。これは周の滅亡の要因にもなっていきました。

周の封建制の問題点

封建制によって広大な土地を支配することに成功した周ですが、徐々に封建制の問題点が浮き彫りになっていきます。
それは代が変わるごとにだんだんと血縁関係が薄まっていくということです。
当初、周王と諸侯らは強い氏族(血縁)関係によって結ばれていました。しかし、その子・孫というように世代が経るに連れて関係性がとても希薄なものになってしまいました。
そうして徐々に諸侯らは独自の国作りを進めるようになってしまい、いわゆる春秋戦国時代に突入していってしまうのです。

チェックリスト

  • 殷王朝が最古の王朝として認められている理由がわかるか?
  • 殷王朝の政治とはどのようなものか説明できるか?
  • 周王朝の封建制について説明できるか?
  • 周王朝が滅亡した理由について説明できるか?

参考サイト