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中国史⑥ 始皇帝


始皇帝の業績

戦国時代を終結させたのはキングダムの政でもおなじみの始皇帝です。
始皇帝抜きでは現在の中国、東アジアの姿はなかったかも知れません。それぐらい後世に影響を与えた人物です。
今回は始皇帝の業績から秦の滅亡までを扱います。

始皇帝が目指した国家

始皇帝が目指したのはいわゆる中央主権国家です。そのためには以下のようなことが必要だと始皇帝は考え、実行にうつしていきました。

  • 法治主義による国家体制
  • 皇帝を中心とした地方体制
  • 思想・単位などの統一


ところで、中央集権国家とはなんでしょうか?Wikipediaによると、

  • 狭義では、行政政治において、権限と財源が中央政府(国家政府)に一元化されている形態。

とあります。中央政府に権限が集中している国家を指すようです。中国史においては中央政府とは皇帝を中心とした官僚制を指します。
現在の日本も中央集権国家だと言えます。

法治主義による国家体制

始皇帝の具体的な政策を見ていきましょう。
まずは法治国家体制です。前回でも述べた通り、始皇帝は法家である李斯を用いて法治主義に基づく、国家作りを進めていきます。
厳格な法が定められ、例えば土木工事が一日遅れただけで処刑されるなど厳しい法律で人々を支配していたようです。

皇帝を中心とした地方体制

周の封建制の課題を克服し、始皇帝を中心とした中央集権国家体制を築くためにとられたのが郡県制です。
地方に皇帝の手足のごとく仕える官僚を派遣し、それをと名付けました。こうして皇帝を中心とした官僚によって中華全土を支配する体制が整いました。
この制度はのちの中国王朝さらには日本にも大きな影響を与えることになります。

思想・単位などの統一

中華を統一するために始皇帝が必要だと考えていたのが、思想の統一です。
特に周の封建制を理想とする儒家の思想は中華統一を維持する始皇帝にとっては邪魔でした。
始皇帝は農業などの実学を除く、儒教などの思想が書かれた本を焼き払い、儒家を生き埋めにしました。その数400人とも伝えられています。
これを焚書・坑儒と言います。

また始皇帝は貨幣や度量衡などの単位の統一を行います。これにより、戦国時代バラバラだった貨幣などが統一され経済活動は活発になっていきました。

秦の滅亡

しかし、始皇帝の死後まもなく秦は滅亡してしまうことになります。それには以下のような要因がありました。

  • 対外政策、万里の長城建築
  • 兵馬俑の建設をはじめとする事業


対外政策

春秋戦国時代〜秦にかけて北方民族である匈奴の侵攻に中国の各王朝は悩まされていました。
始皇帝はこの匈奴の活動に対抗するために万里の長城を完成させます。
この万里の長城の建設は過酷な労働であったと伝えられています。
また、始皇帝は南部への侵攻も行いました。制服した地域に南海郡などの3郡をおき、領土を拡張させました。

しかし、これらの対外政策は民衆の生活を困窮させてしまうことになりました。

兵馬俑の建設

万里の長城の建設に加え、始皇帝が力を入れていたのが自らの墓(始皇帝陵)の建設です。この兵馬俑は現在世界遺産にも制定されています。

しかし、この兵馬俑の建設にも多くの人員が導入され、その労働は過酷なものであったと伝わっています。

始皇帝の死

そういった状況の中、始皇帝は志半ばにしてこの世を去ります。
始皇帝は生前「不老不死」を求めて、ありとあらゆることを試したと言われています。仙人の山に修行をしに行ったり、中には水銀を飲んだという説もあります。

この始皇帝の死を契機として、過酷な労働と法律に不満を溜めていた農民達が立ち上がります。
いわゆる陳勝・呉広の乱です。
この乱は失敗に終わりますが、これをきっかけに各国に潜んでいた王が立ち上がります。その中にいたのが有名な「項羽と劉邦」でした。

チェックリスト

  • 始皇帝の中央集権体制について説明できる
  • 始皇帝が行った政策について説明できる。
  • なぜ秦は数十年で滅亡してしまったのか説明できる。


参考サイト

YouTube 秦が滅んだ理由は始皇帝の○○が原因だった
Wikipedia 中央集権