「中国4000年の歴史」???
前回の動画で中国王朝の順番は覚えましたか?
殷〜から始まっていますね。みなさんが使用している教科書でも殷の歴史から始まっていると思います。
しかし、現在それ以前にも王朝は存在していたのではないかという議論が中国内にとどまらず世界で行われています。
それが、伝説の王朝「夏」王朝です。
夏王朝について
夏王朝はいわゆる三皇五帝と呼ばれる中国の神話に基づく王朝です。
二里頭遺跡が夏王朝のものではないかと言われていますが、これが神話に出てくる王朝のものかは断定されていません。
殷王朝でいうところの甲骨文字のような文字が発見されていないのでいまだにこの二里頭遺跡がどの王朝なのか?そもそも王朝が存在したのか?というのが断言できないというのが現状です。
興味深いのが、現在の中華人民共和国がこの夏王朝も含めて「中国4000年の歴史」とうたっているところです。夏王朝の歴史の認定には中国のいわば「中国が最も長い歴史を持っているんだぜー」というプロパガンダ的な要素と「そんなの認められるか!!」という他国の思惑といった政治的な要素があり、簡単には決められないのです。
しかし、そんなことはさておき、動画内でいっている通り、『史記』を書いた司馬遷がこの神話を含めて歴史を探究し記述しようとしたところにロマンを感じずにはいられません......。
すいません....。熱く語りすぎたようです......。
というわけで、教科書では殷王朝からが扱われています。試験に出る王朝もこの殷からということになります。
中国古代文明
そんな(夏王朝や)殷王朝の土台を築いた文明を覚えるのが今回のポイントです。
具体的には
黄河文明と長江文明をしっかりみていきましょう。
黄河文明
前4000年頃から、黄河流域で牧畜農耕を行う集落が誕生し、彩文土器(彩陶)が用いられルようになりました。この文化は仰韶文化と呼ばれます。
黄河は長江流域とは異なり、乾燥した地域なので稲作はあまり行われず、あわなどの雑穀を中心とした畑作が行われていたそうです。
長江文明
長江下流域に誕生した農耕文明です。黄河流域よりも水資源に恵まれていたため、稲作農耕が行われていたそうです。
河姆渡遺跡が有名です。
竜山文化
前2000年代、黒陶・灰陶や鬲(れき)・鼎(てい)と呼ばれる三足土器が広まっていきました。これを山東省の遺跡の名から竜山文化と呼びます。
大河に立ち向かう人々
広大な大河を相手に農耕をすることは大変なことです。治水や広大な土地を管理することの大変さは想像を絶します。
この黄河や長江といった広大な大河を目の前にして、人々は団結して「家族」というチームを作ります。
広大な自然の前にはみんなで団結する必要があったのですね。中国の古代史ではこの血縁関係の結びつきが基本的なグループになります。この血縁関係に基づいた家族は時に数百人のグループになることもありました。
こうしたグループはついに城壁を持った都市を作るようになっていきます。これが「邑」です。
この邑を束ねて、有力になっていったものが「殷」などの王朝になっていきます。
チェックポイント
- 中国史のはじまりについて語れるか?
- 黄河と長江の農耕の違いについて説明できるか?
- 仰韶文化と竜山文化にどのような土器があったか説明できるか?
発展
- 黄河文明や長江文明などのこの時代にどのような遺跡があったか説明できるか?