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中国史⑨ 新→後漢


前回、前漢の武帝の治世と後半は武帝が招いてしまった社会の混乱を扱いました。
漢(前漢)は混乱の中、外戚の王莽に滅ぼされてしまいます。
王莽は「周礼」を理想とする政治体制を築いて行こうとしまいました。

しかし、「周礼」に基づく政治体制は時代に促していないものになってしまっており、新は豪族の抵抗や赤眉の乱と呼ばれる農民たちによる反乱によって滅びてしまいます。

後漢

そういった状況の中で、漢王室の一族である劉秀が洛陽を都として漢を復興しました。これを後漢と呼びます。

劉秀はのちに光武帝と呼ばれ、日本(倭)の奴国の王に「漢委奴国王」の印を授けたことでも有名ですね。彼自身は中央主権体制の構築を目指し、政治力に長けた人物であったそうです。皇帝の称号「光」武帝はその業績に敬意をあらわしてのものでしょう。
しかし、彼の死後徐々に後漢の支配に陰りが見えてきます。それは豪族の権力の伸張外戚・宦官の対立でした。

党錮の禁

前漢の頃から郷挙里選で中央政治に進出していた豪族は、この頃になるとさらに権力を高め、後漢王朝は実質的に豪族の連合体になっていました。
これらの豪族は元々、権力を握っていた宦官と対立していくことになります。

外戚や宦官らが豪族を弾圧した事件を党錮の禁と言います。

豪族出身の彼らのことを清流派と呼び、彼らは儒教的素養を身につけた人達でした。彼らにとって、宦官という存在は認められない存在だったのです。

そんな彼らを敵視した宦官らは清流派を禁固刑に処してしまいました。それによって後漢の内部は混乱を起こしてしまうことになります。

黄巾の乱

国政の混乱に伴って世の中の治安は悪化していき、豪族らの農民への課税や支配も強まり、人々の生活は困窮を極めていました。
そんな中、人々を引きつけたのが張角を開祖とする太平道です。
張角は呪術によって、病を直したと伝わっています。この太平道は信者を増やしていき、黄巾の乱を引き起こしていきました。

この黄巾の乱は後漢の軍だけで鎮圧できないほどに広がっていき、後漢の皇帝はついに豪族らに黄巾の乱の討伐を命じます。この中にのちに魏を建国する曹操らもいました
彼らの活躍によって黄巾の乱は鎮圧されますが、これは後漢の力が衰退したことを世に示し、曹操らが挙兵するきっかけとなってしまいました。

チェックリスト

新王朝が短命に終わった理由と滅亡の過程について説明できる
後漢が滅亡した理由と過程について説明できる。

参考サイト

YouTubeゆっくり解説 後漢【サクサクさん】
Wikipedia 党錮の禁